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桐壷をめぐる人々 ~超訳源氏物語「桐壷」~ その十六の壱

⑯-1靫負命婦

 

靫負命婦にございます。わたくし、帝より命を賜り、これより亡き桐壷更衣様のご実家に行ってまいります。ええ、実はわたくしが紫式部先生の源氏物語で登場するのはこの場面だけなのでございますよ。あの長大な物語の中で、ここだけ。ですからわたくし、ただいま非常に興奮し、また緊張もしております。ここがわたくしの、わたくし自身の本来の役割なのですから!しっかりとお役目を果たせるよう、精いっぱい努めますので、どうぞよろしくお願いいたします。

季節は秋。台風、私どもは「野分(のわき)」と呼んでおります。風が、野原の草を根元から分けるような吹き方をすることから来ている呼び名でございましょうね。よくは存じませんけれど。ええ、その野分が過ぎて、急に肌寒さを感じるようになった夕暮れ時の事でございます。帝はいつにもまして桐壷更衣様のことを思い出されたのでございましょう、わたくしを呼び出して、命を下されたのでございます。

穏やかな夕月夜でございました。わたくしが出立して、ふと後ろを振り返ると、帝はなにかぼんやりと物思いにふけっておられるご様子。桐壷更衣様ご存命であった頃、こんな秋の夜は、よくお二人で管弦の遊びなどなさっておいででした。桐壷更衣様の琴の音はことのほか素晴らしゅうございましたし、そのお姿、か細いお声の様子などが懐かしく思い出されます。あるいは帝も、あの頃の桐壷更衣様のご様子を懐かしんでおられるのかもしれません。

さて、桐壷更衣様のご実家に到着いたしまして、その門をくぐりましたところ、わたくし、実はその邸の様子のあわれさに大変驚いたのでございます。確かにこの邸は、桐壷更衣様のお母上お一人の住まいではありますけれど、更衣様ご存命の折は、一人娘の更衣様を大事に育てるため、こまめに手入れなどして、こぎれいなお暮らしぶりでいらっしゃったのです。ところが、悲しみに沈む今となっては庭の雑草も伸び放題、それが先日の台風で荒れ野原となっておりました。ただその茫々とした庭の草叢にさえ、今宵の月光は隅々まで、さやかに差し込んでいるのが美しく、そして悲しゅうございました。

わたくしは帝の勅使ですので、南側の、この屋敷で一番いい部屋に通されました。

 間もなく母君もいらっしゃいましたが、しばらくは2人とも言葉が見つからず、黙ってその場に座っているばかりでおりました。先に口を開いたのは母君で、

「今日まで生きながらえてきましたのが本当に情けないくらいなのでございますが、このようなお使者が我が家の庭の露を分け入ってお越しになったことは、さらにお恥ずかしい事でございます」

と言って、耐えられない様子で泣き崩れになったのでした。

「以前、こちらにお見舞いに参りました同僚が、帝に『本当に心苦しく、気持ちも消え入るばかりでした』と報告しているのを聞いておりましたが、実際にこうして来てみると、物を思う事を知らないわたくしでさえも、感極まるものがございます」

わたくしは、泣きそうになるのを精いっぱい堪えてこう答え、帝からの伝言を伝えることにいたしました。仕事、仕事をせねばなりません。がんばれわたくし、でございます。

帝からのお言葉はこうでした。

しばらくは夢なのではないかと思っていたけれど、だんだん冷静になるにつれ、これは覚めない夢なのだと分かって来ました。このたえがたい思いをどうしたらいいのかさえ、相談する相手がいないので、どうかお忍びで来てはもらえないでしょうか。若宮のことも気掛かりで、喪に服した毎日を過ごしているのも心苦しいので、早く参内してほしいのです。

「…と、このように仰せになりましたが、はっきりとは言葉にならず、ところどころ涙でむせ返りながらのお言葉なのです。それでいながら、そんな様子を人に見られたらまた、気弱だと思われはしないかと周囲を気にされるご様子で、わたくし、辛くて最後まで聞くことができずに退出してまいりました。そうしてこれが、お預かりしてまいりました、帝からのお手紙でございます」

そう言って、帝からのお手紙を手渡すと、母君は

「今は心が闇に閉ざされていて、見えるものも見えないのですが、恐れ多くも帝のお言葉を光として、読むことにいたしましょう」

と言って、お手紙を開かれました。

そのお手紙には

「時間が経てば少しは気がまぎれることもあろうかと思っていましたが、ますます忍び難く、辛くなるのは我ながら困ったことです。幼い若宮はどうしているだろうと思いつつ、あなたと一緒に育ててやれないのが気掛かりです。今はただ、私や若宮を更衣の形身と思って、こちらへおいでください」

などと、細やかな気配りで書いてありました。そこには

「宮城野の 露吹きむすぶ風の音に 小萩がもとを思ひこそやれ」(宮中を吹く風の音を聞くにつけ、若宮はどうしているのだろうと思いをはせるのですよ)

という和歌も添えてありましたが、母君は涙で最後まで読むことがお出来になりません。

「長生きすることが大変辛い事だと知り、この長寿を恥じております身が、まして宮中に参内することは大変はばかられることでございます。帝の畏れ多いお言葉を度々いただきながら、自分からはそのようなことはとても考えることはできません。

 若宮はどのようにお知りになったものか、早く参内したいと思っておられるようです。そんな自然な若宮の思いを悲しく感じているわたくしの内心を、どうか帝にお伝えくださいませ。不幸が重なったこの身でございますので、お忍びであったとしても忌み慎むべきかと存じます。帝のお心は本当に、おそれおおくもったいない事と思っております」

母君の気持ちは変わらないようにお見受けいたしました。それももっともなことと思う一方、わたくしはもう一つの我が役割を果たすべく、気を配っておりました。この邸にいるはずの、若宮の様子を帝に報告せねばならぬのですが、どうにも、若宮の気配がないのでございます。

「あの…。若宮はどちらに…?」

私は思い切って口を開きました。顔をお見せになるなら、もうとうにおいでになってもいいタイミングでした。

「若宮は、もうお休みになっておられます」

ああ、遅かったか。それならわたくしの仕事はここまででございます。あとは事の首尾をいち早く帝に報告するのみ。

「それは残念。若宮のご様子を拝見して帝に報告すべきなのでしょうが、もうお休みとあらば仕方がありません。帝が私の帰りをお待ちになっておられますので、今日はこれまでにいたしとうございます。これから帰ってこの事を報告いたします」

私は急いでおりました。これから帰ると、伺候は夜更けになるでしょう。まったく、牛車というのはもう少し早くならないものでしょうか。ばたばたと気ぜわしいわたくしに、母君がこう声をかけられました。

⑯-2につづく