趣味は「きれいなものを見ること」である。きれいであれば人でも美術品でも工業製品でも景色でも、何でもいい。人が何といおうと関係なく、私が日常のふとした瞬間に「きれいだなあ」「好きだなあ」と思えたらそれでいいので、正確には「きれいだと思うものを見ること」が趣味なのかもしれない。日常に小さな美を見つけながら生活するのは楽しいものだ。
「きれいだな」「好きだな」と思うためにはやはり、判断基準が必要だ。逆に「きれいじゃない」「好きじゃない」という判断ができないと、きれいも好きも分からない。
たいていの物には「きれい」「好き」と感じて判断することができるし、少なくとも好きかそうじゃないか位は感じる事ができるのだが、ただ一つ、全くできないカテゴリーがある。それが
生け花
である。何を見ても「いい」と思うし「好き」だと思う。それと同時に「イマイチかも」「好きでもないかも」と思う。判断基準がまるきり構築できないのである。おそらくこれには2つの体験が原因だろうと思う。
昔、茶道をかじっていたことがある。お茶会の準備で、誰かに「椿、活けといて」と言われた。床に椿を一輪。活けたことないんだけどなと思いながら、「入れとけばいいの?」と聞いたら「うん」と言われたので、まあそれなら、とポイと竹の花入れに入れておいた。
一席目が終わって次の席の準備を始めようとしたとき、先生が椿とはさみを手にやってきた。
「ちょっとあんた、床の花、入れ替えるから手伝いなさい。なんやのあれ、誰が活けたん?」
普段は穏やかな先生が、なかなかの剣幕である。私は正直に「私が活けました」とは言えずに「さ、さあ…」と言葉を濁して先生を手伝う。
「ほんまに…こんな花入れて…びっくりしたわ…恥ずかしい」
ケチョンケチョンである。ははは、と苦笑しながら恐る恐る、でも口調はごく軽く、他人事を装って
「そんなにだめでしたかあ~。ちなみに、どこがそんなにダメだったんですか~?」
と、聞いてみた。先生は間髪入れず
「どこもここも、全部やな!何一つなってないねん」
そう言って新しい椿の葉を一枚減らし、竹の花入れに活けた。
「これでええわ。あと、霧吹きしといてな」
と先生は言って、行ってしまった。残された私と椿。
椿。さっきと同じ様に、一輪の椿が入っている。何が違っているのか分からない。冷や汗が出た。
母は、長く生け花を習っている。
実家に帰ると、玄関先にはいつも、お稽古で活けた花が飾ってある。ある時ふと見ると、水盤に活けられた、細くて長い、ススキのような葉っぱが数本、途中でポキンと折れて垂れ下がっていた。
「ああ、持って帰ってくる時に折れたんだなあ」
これだけ長いと持って帰ってくるのも大変だよね、と言いながら、私は折れた葉っぱを伸ばす。まあ、なんとか元に戻ったので、良かった良かった、という満足感で玄関を後にする。
しばらくして玄関を通りかかると、また葉っぱが折れていた。う~ん、やっぱり元には戻らないもんかねえ、と思いながら、また伸ばしておいた。やっぱり折れたままっていうのはいただけない。これで次に折れてたら、テープで補強するか…そんなことを思った。
それからしばらくして、突然玄関先から「あはは~っ!!」と母が爆笑する声が聞こえてきた。なになに、どうした?!と駆けつけると、母は目に涙を浮かべて
「この葉っぱ、伸ばしたのあんた?」という。
そうだよ、持って帰ってくる時に折れたんでしょ、と言うと、母はひときわ高い声であはは!と笑った後
「これ、わざと折って活けてあるのよ~!!あははは~っ!!いや、さっき通りかかったら葉っぱが伸びてるからさ、あんたが伸ばしたんだなと思って元に戻しておいたのに、今見たらまた伸びてるし!もうおかしくておかしくて」
母は泣きながら「見れば分かると思うけどね~」と笑って行ってしまった。
後に残った生け花と私。折れた葉っぱを一本、もう一度伸ばしてみた。これじゃダメなのか。おろしてみた。これがいいのか。良く分からない。冷や汗が出た。
物の良し悪しが分からないのは、自分で判断ができないということなので気持ちが悪い。何とかならないものかと生け花を習おうかと思ったが、おそらく今のままでは月謝をどぶに捨てるようなものなので、まずは「良い」とされる物を沢山見ようと思った。折に触れ、どこかの華道の発表会を覗いたり、街角の生け花を立ち止まって見るようにした。母がいる時は解説してもらったりもした。が、やっぱり分からない。展覧会などはいきなり松の枝が刺さっていたりして驚くばかりだし、檜扇、という花が活けられているのを見た時は、母がひとこと「これはこういうものだから」というだけで、全く理解の範疇を超えていた。何が「こういうもの」だというのだろう?
ただ一つ、未生流という流派の生け花講座をテレビで見た時は、「花の高さは花器の〇倍、花と花の長さの比は〇対〇」などというように、実にロジカルに美の秘密を教えてくれたので「これだ!」と思い、早速スーパーでそれらしい花を買ってきて、手持ちの花瓶に活けてみた。買う時から、出来上がりのすがたをイメージして、活ける。
一本目を活けた時から「おや?」と思う。何か違う。二本目「あれ?」 花が逆向きになってしまう。三本目「なぜ?」 高さは正しいのに、どうもおかしい。四本目「ああ…」 イメージとはかけ離れた仕上がり。
そして目の前に出現した花の塊を見て、良し悪しが判断できないことに呆然とする。分かっているのはイメージ通りに出来なかったという事だけだ。イメージとは違ってるけど、いい感じにできたよね、などという判断が出来ないのだ。だめだ…。
そうして、私は生け花を諦めた。母が、お正月には玄関の衝立の前に一抱えもある蝋梅を、お盆には大量の百合や桔梗を仏壇や床に活けるのを手伝いながら、自分で出来るのはいいなあと思う。母は「これでいいかな?」とたまに私に聞くが、私には「いいよ」としか言えない。実際「いいな」としか思わないし、逆に、なぜ蝋梅だけを活けるのに、そんなに悩むことがあるのだろうと思う。まあようするに、才能がないというのはこういうことなのだ。
最近、「プレバト」というテレビ番組をよく見ている。俳句や生け花や水彩画など、センスを問われる趣味に芸能人が挑戦し、その道の先生が査定してランク付けするという番組だ。
いつも娘と見ているのだが、私は俳句の時は、句の良し悪しを「いいねえ~」「なんか普通」などと断じる。たまに「そこは『に』じゃなくて『は』やろ」などと偉そうにいった後、同じことを先生がテレビの中で言うことがあって、そんな時の娘の私に向けられる尊敬のまなざしが非常に心地よい。「現状維持」「1ランクアップ」などの評価も、大体先生と同意見だ。
が、これが生け花になると、やはり全然だめだ。どうだめかはこれまで散々書いてきた通りで、全部よく見えるし全部ダメにも見える。だから私はただただ「花はきれい」という目で見ている。
ところがこの時、横で娘が「これダメだよ!右側の空間が空きすぎてるもん」などといい、その通りに假屋崎先生が後から言ったりして、私は尊敬のまなざしを娘に向ける事になる。
娘は生け花をやったことがないし、才能があるかどうかも分からない。が、少なくとも私よりは見る目がありそうである。これは一体、どこから来たものなのだろうかと不思議に、そして少し嬉しく思いながら、テレビの生け花について意見する娘を眺める。どうやら才能の有無は遺伝しないものであるらしい。
生け花に割としつこくアプローチして分かったことが一つだけある。それは、剣山が見えてはいけないということ。あれだけ色々試した挙句、はっきり理解して実践できたのはこれだけであるから、我ながら苦笑するしかない。しかしまあ、目に入る花全てを「良し」として眺めるのも、それはそれで楽しくていいじゃないかと思う今日この頃である。花そのものは、確かにそれだけで美しい。それだけは間違いないのであるから。