hikyou

上野公園のカエルの人

平成最後の昼下がり。

雨の東京を学生時代の友人たちと車でクルーズしていたら、娘が突然「トイレに行きたい!」と言い出した。子供か!と思ったけど子供だった。走っていたエリアには、見渡す限りコンビニなどは見えない。

友人がそれじゃあ、とハンドルを切って大通りを外れ、上野公園の縁で車を止めた。道路の向こう側に、公園のトイレが見える。

良かった~。ちょっと行ってくる

傘をさして横断歩道を渡り、トイレに向かう娘を車内から眺めていた。雨が公園の緑を洗って光っている。昨日ここに来た時とは全く印象が違う。上野公園というのは本当に広いんだなと思う。

その時、前の席の友人が、あ、と声を上げた。その声に誘われて視線を娘から外すと、反対車線の歩道を全身緑色の人が歩いていた。緑というか、ビリジアン。

私はもっと見たい、という衝動に駆られてウィンドウを下げた。カッパ、いやカエル。カエルの全身タイツらしきものを着た男性が、傘をさし、すこし猫背でスマホを見ながら歩いている。

 

東京に来てすぐに渋谷に行ったら、偶然レインボーパレードにぶつかった。

いろんな人がいた。女装した人、仮装した人。それはパレードをしている人だけじゃなくて、歩道で見ている人の中にもいて、普通の格好の人や警備の警察官に交じって、髭面でつけまつげ、金髪のボブでミニスカートに網タイツ、二の腕はムキムキ、みたいな人がさりげなく立っていたりして、ものすごく面白かった。自由でいいじゃないかと嬉しくなった。毎日がこうだと世界はどんなに面白いだろうとワクワクした。

 

今、パレードでもなんでもないのに、目の前をカエルの人が歩いている。髪の毛はレインボーのアフロ。いいなあ。素晴らしい。

 

(わぁ~♡変な人がいるぅ~!!)

 

私は嬉しくなって、心の中で歓声を上げた。しかし次の瞬間

「こらこらこら!」

「言い方、言い方!」

「ちょっとそれ…!」

 

車内の面々から、一斉にツッコミが入った。え?なんで心の声が聞こえたのかな?

「いやいや、今、思いっきり声に出てたって!!」

「びっくりするわもう!」

「いい大人が、思ったことをそのまま口にするっていうのはいかがなものかと!」

え、ええ~っ?声に出てた~?いやあ、思いが溢れたんだねえ。

「いやいや、今あなたがしたことは、①窓を下げる②歩いてる人をディスる③窓を上げる、以上、ですから!」

「なぜ、わざわざ窓を開けて言うかなあ」

「ホントだよもう。よく見たいってのは分かるけどさあ」

私は笑った。そうなのか、声に出ていたのか。それは確かにひどい。いい大人のする事とは全く思えない。でも、車内がこのメンバーだったからうっかり心の声が漏れたのであって、もしメンバーが違えばちゃんと分別のある行動を取った自信はある。絶対ある。ちょっと安心しすぎてしまったのだな。反省。

「今の、本人に聞こえたんじゃないかなあ」

という友達に、いや、聞こえないよ。反対車線だし、ちょっとつぶやいただけだもん、と答えたら、全員から「結構でっかい声でした!!」

と突っ込まれてしまった。いやあ、私としては賛辞であり礼賛に他ならないのだけど、まあ確かに客観的に見れば、大人としてあるまじき発言だったというしかない。

娘が戻ってきた。夫がすかさず今起きたことを説明して「あんたのお母さん怖いよぉ。何するか分かんないから気をつけたほうがいいよ」などとよく分からない訓示を垂れていた。

車は再び走り出す。上野公園の縁に沿って。あのカエルの人は、芸大の人かなあ、という話になった。東京芸大。上野公園に隣接した我が国最高峰と言われる芸大。

まあ多分そうだろうね、この先がキャンパスだからね、と言いながら、友人は以前読んだという「最後の秘境 東京芸大」という本について語ってくれた。

東京芸大には音大系とそれ以外があること、カラーが結構違うこと。いかにこの芸大がカオスで秘境で、そこに生息する人々が一般からかけ離れているか、ということを友人は語った。そうか、カエルの人はカオスの住人なのか。なるほど。

へえ、じゃあその本、読んでみる、と答えて京都の自宅に戻ってきたが、家の周りの本屋にはどこもこの本を置いていなかった。さすが秘境、普通には見つからないのか。やはり秘境なだけにアマゾンで注文か、と思っているうちに日が過ぎた。

そして先日、ぶらっと立ち寄った本屋で見つけた。

秘境は漫画化されていた。

私は全く買う予定のなかったその本を手に、悠々とレジに向かった。雨の上野公園の縁。カエルの緑。あの日の雨のにおいが瞬時に立ち上ってきて嬉しくなった。