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男のロマン、女のロマン

家族でボードゲーム「カタン」をやったあと、片付けて最後に蓋をしめた時、そこに書いてあった

 

資源で未来を開拓するロマン

 

というコピーが目に留まり、思わず「ロマン!!」とつぶやいた。するとそれを聞いた夫が

 

「まあだいたい、そういうとこで『ロマン』を使いたがるのは男やね。そのコピー、多分書いたの男性やろなあ」

 

と言った。以来、世の中にある「ロマン」の使い方、あり方にアンテナを張っている。

 

そもそも「ロマン」とは何ぞや?

 

【ロマン】
①壮大なスケールの構想と、ドラマティックな筋立てを縦糸とし、青春の抒情性と深く湛えられた神秘性などを横糸として織りなされた長編物語

「ミステリーーー」、「海洋ーー」

②厳しい現実(退屈な毎日)に疲れがちな人々が、潤いや安らぎを与えてくれるものとして求めてやまない世界。また、それを求める心。「古代史のーー」「--をかきたてる」「男のーー」

                            新明解国語辞典 第五版より

 

まあだいたい、おそらくカタンの箱に書かれた「ロマン」は②の意味だろうなあと思いつつ、男のロマンはあっても女のロマンはないのかなあ、なんてぼんやり考えた。

 

ところで「ロマン」は男子好みの単語だが、これが「ロマンティック」となると、なんだか急に女子めいてくる。これは不思議だなと思って、これもまた、新明解国語辞典第五版にお伺いを立ててみた。

 

【ロマンティック】

(ロマンに描かれる世界のような)その人がいつも現実がそうであればいいなと思って想像している理想が実現された様子。ーーな考え方

 

ふうむ。ロマンは理想、ロマンティックはそれが実現された様子であると。ロマンティックはロマン的な現実なのだ。やはり、女子はリアリストなのだなと舌を巻く。

 

ロマンティックは止まらない。「誰か止めて」とCCBがいくら歌っても、現実だから止まれない。そうして、こちらが本当の勇気を見せれば、相手はロマンティックをあげるよ、とまで、ドラゴンボールのエンディングでは言っている。そう、ドラゴンボールを集めた暁に実現する夢は「現実」なのだから「ロマン」ではなく「ロマンティック」なのだ。

 

閑話休題。

 

先日、テレビで日本アカデミー賞の授賞式を見ていた。のんびり見ていたところ、太宰治「人間失格」が映画化されていたらしく、いくつかの賞でノミネートされていた。

 

太宰嫌いとしては喜ばしいことではないが、まあ見なければいいだけの話なので、ふうん、と思うだけであった。が、短い作品紹介の映像に、どうにも反応してしまう。

 

愛人が、太宰に一緒に死のうと迫っている場面を見て、どうして太宰は一人で死なないか、と思う。

 

川端康成は、ガス管をくわえて死んだ。ノーベル賞まで獲った文豪の最期として、その方法は本人の美学にかなうものなのかと思わなくもないが、ともかく一人で逝った。芥川龍之介は多量の睡眠薬を飲んで死んだ。三島由紀夫は言わずもがな。みな一人で逝った。

 

それに引き替え、太宰治は女と三度の心中をして、三度目でついに心中を成功させて今に至る。往生際が悪くないか。本当は死にたくなかったのではないか。ならばなぜそんなことをした。あるいはせざるを得ない状況にまで自らを持って行った?

 

「私と一緒に死ぬのよ!そうすればあなたは永遠に私のものになる!」

 

というようなセリフがテレビから聞こえて来た時、反射的に

「ん~な訳ないやろ~?!」と言っていた。人は生まれるときと死ぬ時は一人だと思う。多分。少なくとも生まれてくる時はそうだった。それをそんな、「一緒に死んだら永遠に一緒」だなんて、本当かどうか分かったもんじゃない。もし、二人で一緒に死んだはいいが、あの世であっちとこっちに分けられて、向こうの役人あたりから「もう二度と会えぬ」なんぞと言われた日には目も当てられないではないか。それなら生きてた方がマシだったと思っても、もう取り返しがつかないのである。

それに、だ。まあ一人目はいいとしよう。しかし二人目からは、心中しようという話が出た時に、相手の女だけが死に、太宰は生き残ったという、一回目の心中事件のことを勘案しなくてどうする。自分もその女の様になるかもしれないという可能性を考えないのだろうか。いややはりそこは、人は都合のいい事しか見えないという特質から「自分だけは違う」と思ってしまうのだろうか。いずれにせよ。

「な~んでそんな、真偽が分かった時には取り返しがつかない事態になるようなことに、賭けようとするかねえ?」

 

心底理解できん、という風情の私に、夫が言った。

 

「それが、女のロマンってやつなんじゃない?」