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春はつれづれ

平成最後の桜が咲いた。2019年。今年は好天が続き、気温もグッと上がって、入学式には満開の桜が新入生を迎えていた。春爛漫である。

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春は楽しい。気持ちが華やぐ。しかし同時に落ち着かない。

在原業平が

世の中に たえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし(この世に桜がなかったならば、春の心はどんなにか穏やかだろうに)

と詠んだように、春になると人々は途端に落ち着かなくなる。まだまだダウンが手放せない気温だというのに桜の開花予想日などがテレビで話題になるし、東京の開花宣言などは何ごとかと思うほどの取り上げられ方である。

咲いたら咲いたで、天気は、気温は、雨だ、風だと気が気ではない。一通り桜が散ってしまうまで一喜一憂、右往左往。

かくいう私も、平安神宮に花見に出かけるのが恒例だ。小説「細雪」を気取って、神苑に入って「ああ」と感嘆の声を上げたいのだが、神苑の桜はいつも少し遅くて、実際に入ると「ああ」ではなく「あら?」となってしまう年が多い。

なので今年は一週遅くすることにしたのだが、なんと今年は上天気に誘われて週半ばにして平安神宮の開花情報は「満開」となってしまった。さらに開ききったところで無情の雨。ああ、この雨で桜は終わってしまうだろう、と思うと、雨の音さえ悲しく聞こえて、まさに「世の中に~」の気持ちそのものである。

まあ、それならそれで、と私は思い直す。吉田兼好が「徒然草」の中で

花は盛りを、月は隈なきをのみ見るものかは(花は満開、月は満月だけが見る価値のあるものだろうか?いやちがうだろう?)

と言っているのである。そうそう、散り際の桜もまたいいものに違いない。疎水の水面に浮かぶ花筏を愛でようじゃないか、と。

 

で、吉田兼好はこの徒然草の第137段で、実際どんなことを言っているのか、きちんと原文を読んでみた。そして笑った。吉田兼好は現代をお見通しである。というか、日本人が鎌倉時代から変わっていなかった。

何と言っているか?

前半は「桜は満開だけじゃなくて、咲く前とか散った後にこそ風情があるってもんじゃん」といろんな例を出して主張している。恋愛だって、逢ってひたすらいちゃついてる時よりも、会えなくてジリジリしてる時の方が恋してるって感じがするのと同じで、花も月も、見えないところで思っている時こそが醍醐味、と、なんだか屁理屈っぽい事を言っている。

ついでに「家の中に籠って、春が過ぎて行くのを知らないままでいるのも趣深い」などと言っているが、それは多分、この時期特有の三寒四温、寒の戻りで風邪でも引いて臥せっているうちに桜が終わっていた場合なのではないかと私は睨む。趣深いというのは兼好流の強がりにちがいない。

まあそんな感じで、ちょっとずらしたところがカッコいいんだと、スノッブな主張をする兼好氏であるが、後半は桜の見方にモノ申しはじめる。曰く「片田舎の人に限って、ガッツリ見たがるよね」。

お洒落な人は、さらっと見るもんだよ。でも片田舎の人に限って、いつまでもしつこくガッツリ見るよね。花の下に寄って行って酒飲んで、大声で歌ったりした挙句に枝折ったりしてさ。

との事。私はこのくだりを読んでいて、当時から「片田舎」という語彙があったことに驚くと同時に、あまりのデジャブぶりに「ああ」と感嘆の声を上げてしまった。円山公園の枝垂れ桜に、ネクタイを頭に巻いたサラリーマンが柵を乗り越えて行って抱きついていたっけなあ。映え映え言って写真撮りまくるよねえ。枝揺らして「桜吹雪~!」とか言ってるのも見たことあるし、酒飲んで大騒ぎとか、言うに及ばずだよねえ。兼好氏、現代の花見事情を見てるのか?いや、鎌倉時代も同じなのだな。

締めはこうだ。

「春だけじゃなくて、夏には泉の水に足を突っ込むし、冬には積もった新雪に降りて足あとつけたりとかさ、ホント、奴らは遠くから見てるだけってことができないんだよな」

桜の楽しみ方が、いつの間にか田舎者批判になって終了。でも、う~ん、どれも見覚えがあるので苦笑してしまう。

かくいう私はどうかというと、この通りガッツリ桜の写真も撮ったし、

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花散らしの雨に気はそぞろ。「花筏でも楽しむか」なんていうのは、はっきり言って強がりだ。やっぱり花は盛り「も」楽しみたい。そう、私はりっぱな田舎者なのだ。枝は折らないけれど。