仕事納めの日は通常の仕事はせずに、大掃除をする。
今の会社には11月に入ったので、翌月が仕事納めだった。
しかも土曜日。午前中だけだし、来てくれないかと上司に言われ、
本当は行かなくても良かったのに、新人の張り切る姿をアピールしたくて出社した。
結果、何やらたくさんの差し入れやらカレンダーやらのお土産をもらい、先輩にはランチに誘われてみんなとちょっと仲良くなれた。
来て良かったなあ、と素直に思った。
荷物も心もホクホクで、上機嫌で帰途につく。
ランチに行ったせいでいつもと違う自転車の帰り道は、雪が降りそうな曇り空で風も強かったのに、そんな事が一向に気にならないほど、とても温かい気分であった。もらったお土産を早く家族に見せたい、そんな思いでペダルを漕ぐ。
途中、ちょっと広い道に出た。記憶によると智恵光院通。特に信号もなくて、しかも車も全く来ていたなかったので、斜めに道を横切った。渡りきったそこにはセブンイレブンがあった。特に用事があるわけではない。
渡り切って、自転車を歩道に乗り上げようとしたとき、そこにあった車道と歩道を隔てている縁石の高さが、思ったよりずっと高いということに気が付いた。
まずい、と思った。これくらいの高さを乗り越えるには、角度が甘い。
しかしもう、ルートを変える暇もブレーキをかける暇もなかった。ままよ、乗り越えられるか?!とグッとペダルを踏む。
が、自転車は縁石を乗り越えることが出来なかった。前輪が縁石に阻まれてどうしてもそれ以上歩道側に動かせない。あっ、と思った時には慣性の法則に従って、私の、主に上半身だけが歩道に飛んだ。
バンっ、と両手の平をアスファルトにつけた。確かに手をついた。
しかし同時にガツ、という鈍い音が耳元でして、一瞬視界が暗くなり、鼻筋に痛みが走った。
要は、こけたのである。
だっさ~
と、まずは自分に突っ込みを入れる。まじかぁ~、こけるなんて、何十年ぶり? こんな目の前で地面を見たのは久しぶり…。
そんなことを思いながら、とりあえず腕立て伏せの要領で顔をアスファルトから遠ざける。
ポタポタポタッ…
私が顔をあげると同時に、そこに赤い液体がいくつか滴り落ちた。
鼻血ぃ~?! さらにダサいな。
そう思いながら自分が顔をぶつけたところをよく見ると、そこは歩道とコンビニの駐車場との境で、ほんのちょっと5センチあるかないかの段差であった。確かに手をついたのになぜと思ったら、そのでっぱりがあったのだ。
おでこや鼻の頭は無傷なのに、鼻筋をぶつけたのはそのせいだったのである。
む~。鼻筋ぶつけて、鼻の中が切れたな…。鼻血なんて子供の頃でもあんまり出したことがないのに…。
さっきまで、あれほど温かかった気持ちが、急に冷めていく。それと同時に鼻筋がジンジン痛み始めた。
ともあれ、起き上がらなくてはいけない。
そのままの体制でちらりと周りを見ると、50メートルくらい離れたところに、人が二人いた。
「あ~、あの人こけはったわ」と見物するには十分で、かといって「大丈夫ですか?!」と駆けつけてくるほどの距離ではない。
これは最悪の恥ずかしさである。駆け寄って来てくれたら「いや~もう、恥ずかしいわぁ! あははは!!」とか笑えるのに。
もしそうでなくても、誰か知り合いでもそばにいてくれたら、どうにでも取り繕えるし、何より、この体を張ったネタをしっかり見てもらえたというのに、この無駄なネタは何なのだ。一人でへらへら笑いながら立ち上がるのもカッコ悪いし、かといって何事もなかったように立ち上がるというのも、これまたダサいではないか。
一体どんな顔をすればいいのか?!
困惑しきってもう一度、そっと50メートル先を見ると、もうだれもいなかった。
今がチャンス!とばかりに私は起き上がり、そそくさと自転車を起こし、道路に散らばった荷物をまとめる。
自転車を含め、特に壊れたりしたものはなかった。さっきもらった、フーシェのミルフィーユが粉々になっていないかどうかだけが心配である。
さあ、気を取り直して帰ろう。まだまだ家までは距離がある。とりあえず、何もなかったことにして、帰ろう。
ただ、年末の真昼間に、おばさんが鼻血出しながら自転車を漕いでいたら、さぞかし周りの人は気味が悪かろう。
そう思って、マフラーで念入りに鼻の穴付近を隠す。念のため、ちょっとティッシュなど詰める。応急処置だ。
冬で良かった。厚着のせいでほとんど怪我もしていない。手袋のおかげで手のひらも無傷だ。一応、見た目には何事もなかったかのように見えるはず。
それからほんの10分位の道のりの間に雪が降って来て、強い向かい風も吹いてきた。
空は灰色で、それは私の気分そのままを表現しているようであった。
今やもう、30分前のあの幸福な気分は消し飛んで、ただただ私は「40過ぎて自転車でこけて、鼻血だしたダサいおばさん」という事実に打ちひしがれていた。ダサい。どう考えてもダサすぎる…。
家についてチャイムを押すと、もう休みになっている夫と娘がはじける笑顔でドアを開けてくれた。
しかし、私の顔を見た瞬間「どうしたの?!」と驚いた顔になった。
そりゃそうだろう。こんなにどんよりしたオーラで帰ってこられたらびっくりもするだろうさ。
「血が出てるよ!」
と娘が言う。え…? なんで分かるんだろう?とマフラーの位置を手で確かめながら聞いてみた。すると二人は声をそろえて
「なんでって…見れば分かるよ! 鏡見てよ!」と言った。
そこで鏡を見て、我ながら呆れた。
鼻血は確かに出ていたが、それは鼻の穴からではなく、鼻筋から出ていた。
つまり、鼻筋をぶつけて鼻の中を切ったのではなく、ぶつけたその場所を、擦りむいたように怪我をしていた。そこから血が、たらりとひとすじ垂れていた。
マフラーでは、全然隠れてなかった。丸見えであった。
年末の真昼間に、おばさんが鼻血出しながら自転車を漕いでいたら、さぞかし周りの人は気味が悪かろう。
そんな私の配慮は、全く何の意味もなかったわけである。周りの人はさぞかし気味が悪かったであろう。
応急処置として鼻に詰めたティッシュを取り出してみると、当然ながら真っ白なままであった。何が応急処置なんだか。
病院に行けと言う夫に、もう病院はさっき休みになった、と言い放ち、私は鏡で傷の様子を観察した後、コンビニに向かった。
そして傷を湿った状態で治すパットと、ふき取るタイプのクレンジングを買う。
なんかもう、鼻が痛すぎてどうでも良くなってきた。とりあえずメイクさえ落せたら、しばらくはすっぴんでいられる、と思うばかりである。そんな訳なので、もう鼻の傷を隠しもせずに「ええそうです。見れば分かるでしょ、怪我したんです。そういう買い物ですが何か」という変な態度で支払いをしてしまった。
家に帰って、傷を水で洗ってパッドを貼った。
するとあら不思議! 痛みも消えるではないか!!
防水だし、顔を洗ってもへっちゃらだ。そこで無事、普通にメイクを落とすことが出来た。
人間、けがの状態がどうあれ、痛みがなければどうという事もないのであるらしい。
私はすっかり機嫌がよくなり、夫と娘が「顔が腫れて来てるよ!」と心配しても「見えないからいい」と言って平気だった。見ると、確かに鼻筋が腫れて、頬との境目がなくなっていた。でも痛くないからいいのだ。
コンタクトレンズを外してメガネをかけると、ちょうど鼻当てが傷の位置にあたってとても痛い。
この軽いものが触れただけでこれほど痛むという事は、おそらく鼻の骨が折れているのだろう。
夫にそんな観察結果を報告すると、彼は病院に行くように強く勧めてきた。しかし鎖骨と鼻の骨は折れてもほっとくしかないんだから行っても無駄なのである。夫がどれほど呆れた顔をしようが、パッドさえ傷に貼ってメガネかけなきゃいいのである。
困ったのは、年末の買い出しに行かなくてはいけない事だ。絶対に知り合いに会う。
でもこれは、マスクとマフラーで軽く変装することで乗り切った。メガネが使えないのが変装としては中途半端だったが何とかなった。もしかしたら、顔が腫れていたせいで純粋に人相が変わっていて、単に気づかれなかっただけなのかもしれないが、結果オーライだ。
一番困ったのは、年に一度、お正月に帰省して来る友人と会う事になっていた事だ。
年に一度しか会わない大事な友達に、この顔を見せることになるのか…。しかしこれは致し方ないと観念する。
年が明けて友人と会い、さっそく事情を説明する。と、しごく軽い調子で
「てーそく? こーそく? あ、ママチャリならてーそくか。大丈夫大丈夫」
と言われた。
「てーそく?」と聞き返すと「低速」「高速」の事らしい。友人はロードバイク乗りで、レースにも出たりしている。自転車で転んでけがをすることには、さほど驚かないらしかった。
こうして私としては年末年始最大の問題であった「自転車でこけてケガをした件」は、会って30秒で何という事もなく流されてしまったのであった。
そんなもんか、と思えて有難かった。
でもせっかくの自虐ネタ、もう少し活用したかったような気も、しないでもない。
テンポのあるお話、ぐっと引き込まれました。それにしても大変な思いをされましたね。その後、怪我されたところはすぐに回復されたのでしょうか。楽しい回復顛末記でもあればまたブログに書いてくださいね。
ありがとうございます!一瞬の出来事でしたが、なかなかの破壊力がありました(笑)
28日に怪我をして、年明けには腫れも引き、仕事始めには見た目は普通になっていました。ただ、皮膚がしっかり再生するまでしばらくパッドは貼り続けていました。
腫れのせいで驚くほど鼻筋が高くなって、夫にはずいぶんからかわれました(笑)