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指を怪我して思ったこと

夕飯の準備中、包丁で指を怪我してしまった。
血が止まらなかったので、まずいな、こりゃ縫うかもな、と思い、病院に行くことにした。

 

外科は、家から徒歩数分のところにある。時間もちょうど夜診が始まる時間だったので、とりあえずの止血をして、手を心臓より上にしながら、自転車を片手で運転して行った。

 

縫うほどの傷ではないね。

 

医者はそう言って、傷口に細いテープを数本張り付けた。そして看護師が上から指を包帯でこれでもかという位グルグル巻きにしてくれた。そうして

 

濡らさないこと

曲げないこと

 

という指示を出して、治療は終わった。帰り際、看護師が

 

濡らさないように水仕事してくださいね、と無理なことを言う。実際、私は今も、夕飯の準備中なのだ。家に帰ればまな板の上にトウモロコシが乗っているはずである。苦笑した。

 

化膿止めの抗生剤をもらって病院を出ると、8月の熱風が私を包んだ。今年の夏は殊の外暑い。7月の前半から毎日のように気温は38度を超えている。暑さに加え、京都特有の湿気を孕んだ熱風は、一瞬で私から体力を奪っていくような気がする。額から汗が吹き出す。

 

体に絡みつく熱風をちぎるように自転車を漕ぐ。親指の、中の方が疼く。

暑い。そして痛い。

 

私は一年前のお盆に読んだ小説『野火』を思い出していた。目の前に広がるのはアスファルトと鉄筋コンクリートの街並みではあるが、昭和20年のレイテ島の暑さと湿気はこんな感じだったのだろうかと思う。指の痛みが、きっとそうに違いないと思わせてしまう。負傷した兵士の感覚を、ほんの少し実感したような気分。

 

小説『野火』は終戦間際のフィリピン、レイテ島が舞台だ。

ここに送られた日本兵は、食料も武器も補給されない中、絶望的な作戦を言い渡される。言い渡されても、それを実行する義務があるのかさえ分からないほど、命令系統もなにもかも崩壊している。

 主人公は結核を患って部隊を追われ、野戦病院に行くも食料がないからと入院を拒否される。アメリカ兵、現地島民に囲まれて、ただひたすらに迷走する主人公。

 

読みながら、暑いなと思っていた。読んでいた時も8月だったので、こんな暑さだったのかと思いを馳せながら、私はしかし、作品の世界にどっぷり浸ろうとはしなかった。どこかで距離を保とうとしていた。

 

なぜなら、内容が悲惨すぎたからである。悲惨、というよりはエグい、と言った方がピッタリくる。アメリカ兵とか銃撃戦とか、そういうのはあまり出てこない。あるのは暑さと飢えと不衛生、絶望と疑心、そしてカニバリズムと死。カッコいい「聖戦」などとは対極のリアルな生々しさが、胃をずしんと重くする。私は「結核で、食糧なくて、なんでそんなにジャングルの中を歩き回れるんだろう?元気だなあ」とわざとのんきなことを思いながら読み進め、時にはそれが活字であるのを良い事に、辛すぎるシーンは飛ばし読みしたりしていた。そうしなければ最後まで読めなかった。

 

『野火』の世界は今日みたいに暑いのだろうか、と読後一年経ってもやはりそう思う。信号待ちでうっかりブレーキを握ってしまい「痛っ」と一人ごちる。痛くて暑い、8月の夕方。

 

帰宅すると、やはり台所には包丁とトウモロコシが出かけた時のままに置いてあった。時計を見ると、ちょうど怪我してから一時間が経っていた。

 

ことが起こってからほんの一時間で、治療が済んでしまったのか、と、包帯がグルグル巻きにされた指を見る。包帯は、当然ながら清潔で真っ白だ。

 

確かに病院に行くほどのケガではあったと思う。しかし縫うほどではなかった。ラッキーと言っていいくらい、要は「軽傷」だ。『野火』の世界では、こんな怪我はケガのうちにも入らないだろう。あそこで怪我、というのはそれこそ、四肢欠損のレベルだ。

 

そんな、ケガとも言えない怪我でも、私は痛いと言って病院に行き、医師の治療を受け、化膿止めの抗生剤まで出た。それもほんの一時間の間に。

 

この差は何なのだ、と思った。『野火』の世界は遠い昔の話ではない。祖父母の世代の話である。現代生活との違いの方が、よほどフィクションだな、と思った。だからこそ、今の平和をかみしめるとか、そういう感覚もないではないが、どちらかというとあの世界とこの世界の不連続さを、不公平感を、少し腹立たしくさえ思った。どうしてあの人たちはあんな思いをしなくてはいけなかったのか、そうしないと今のこの生活はないとでもいうのか。そんな答えの出ない問いを考え、結局のところは、現代の恩恵を受けつつ、もう二度とあんな思いをする人がないようにするしかないのだろうと、ありきたりな結論を得る。不甲斐ないけれど。

 

もう一度、指を眺める、そして少し曲げてみると、やはり指の奥の方がズキンと痛んだ。なんとなく、あの時読み飛ばした分も含めて『野火』を、本当に万分の一、体験出来たような気がした。そして『野火』を読みながら、私はどこかで「私は戦場に行くことはないから」と最終的には他人事だと思おうとしていたことを思い出した。甘いな私、と思った。そうして、万分の一でも十分に痛くて、しっぽを巻いて逃げ出したい自分を笑った。笑えることがありがたいと思った。

 

それから私はエアコンのスイッチを入れ、手にはビニール手袋をはめて台所に立ち、そしてトウモロコシの実を包丁でザクザクそいで、水加減を済ませてある炊飯器に入れ、炊飯ボタンを押した。これでやっと、私の日常が戻ってきた。