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彦根に行って考えた

家族で彦根に遊びに行った。
彦根城とその周辺を観光したあと食事をして、甘いものでも食べて帰ろう、ということになった。

 

向かったのは彦根城からほど近い「たねや 彦根美濠の舎」。二階建ての洋館と、どっしりした日本家屋がL字型に連なっていて、洋館の方はバウムクーヘンでおなじみ「クラブハリエ」の店舗とカフェ、日本家屋の方は和菓子の「たねや」の店舗と茶寮になっていた。

 

私達はあんこが食べたかったので、迷わず「たねや」の方に入る。ちなみに二つの建物は、中で繋がっていた。

階段を上がって茶寮に向かうと、入り口で人数を聞かれ、しばらく待つように言われた。店内はガラガラなようだが…と思いつつ待っていると、間もなく呼ばれた。靴を脱いで店内に入る。

店内は太い梁や白い漆喰が目立つ民芸調の建物で、通されたテーブルやいすも分厚い木製の物だった。店内はピカピカで、田舎風に見せてはいるが、本当に田舎なわけではないことは明らかである。

家族三人、それぞれにぜんざいとあんみつを注文する。すると店員さんが注文の確認を取った後で

「それでは、これから七輪を持ってまいりますので少々お待ちください」

と言った。

しちりん、という響きが、自分のオーダーしたぜんざいと結びつかず、一瞬きょとんとしたが、ああ「七輪」なのか、と脳内変換して納得する。いやでも、なぜにぜんざいで七輪なのか…??

その答えは間もなく出た。ほどなく私達のテーブルに、小さな七輪と、粟餅が運ばれてきたのだ。そして店員さんが

「この七輪でお餅を焼いていただいている間に、ぜんざいを用意してまいります。そのお餅をぜんざいに入れて、お召し上がりください」

おお、そうなのか!私は急にワクワクしてきた。ぜんざいは数えきれないほど食べてきたが、こうやって食べるのは初めてである。

店員さんが立ち去ると、私達は早速、七輪の上に細長いお餅を載せる。

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なんだか楽しい。そうして喋りながら、お餅をひっくり返しながら、ぜんざいが来るのを待つでもなく待っていると、ちょうどお餅が焼けてきた頃にぜんざいが出てきた凄い、ピッタリのタイミングだ。

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早速、自分で焼いたお餅をぜんざいに入れて、食べる。

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凄くあっさりとした甘みで、小豆も少な目。みそ汁も具は少ない方が上品だというが、ぜんざいもこれくらい小豆が少ないと、それはそれで上品なものなのだな、と思いながら食べる。一緒についてきた、分厚い角切り昆布の佃煮がおいしい。

食べ終わって、自分の目の前にある什器を見る。

ため塗りの正方形のお盆に、昆布の乗っていた黄色いお皿、お餅が乗ってきた染付の小皿、そしてきれいな形の無地のお椀。

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きれいだなあ、と思いながらそれらをしげしげと眺めた。とはいえ、これらの什器に食べ物が全て盛りつけられた状態で目の前に並ぶ事はないのか、と思うと、面白さと、写真が撮れなくて残念な思いが入り混じる。ではあるが、空の什器がこんなに美しいというのもなかなかないなという気がして、私はお箸もきれいに並べて、その佇まいを鑑賞した。

こういうお皿が欲しいんだよなあ、とお餅が載せられていた染付のお皿を手に取り、詳細に眺める。カニとエビの絵が紺色の線で描いてあり、皿の縁はくっと角度をつけて立ち上がっている。そのへりは小さく波打っていて、茶色い釉で縁どられていた。

実はこういうお皿を長い事探しているのだが、サイズと、何よりこの縁の立ち上がりかたをした物がなかなかないのである。どこで売ってるのかな、と思う。お餅が載せられていたが、どんなお惣菜を盛り付けても良さそうだ。おひたし、白和え、きんぴら、卵焼き。万能だろうなと思う。いいなあこれ欲しい。

次に黄色のお皿を見る。全体に黄色一色で、中心に龍のすがたが彫られている。縁は緩やかにカーブしていて、使いやすそうなお皿である。

こういうお皿は、お惣菜よりもお菓子を載せるのに向いているなと思う。ピンク色の練りきり。白いじょうよ饅頭、緑のきんとん。ああ、絶対にいいわ。そうしてここに、茶色の昆布を載せて出すというお店のセンスに脱帽だ。
こういうお皿も前々から欲しいと思っていて、こんな感じの小判型のお皿を、店先で実際に手にとってみたことがある。御池通りの骨董を扱う店先に気軽な感じで並んでいたので、あ、いいな、と思って見ると、結構なお値段が付いていた。でも5枚セットの値段だったら何とか買えなくもないなと思ってお店の人に聞いてみると、それは一枚の値段であった。あの時は予算オーバーであえなく退散したのだが、今手の中にあるこのお皿も、やっぱりあれと同じくらいの値段がするのかなあ、と思いながら、裏も表もしげしげと眺める。う~ん、やっぱりいいなあ。

お椀は無地の黒。真っ黒というよりは、少し赤みがかった黒。手に馴染みやすい小ぶりなお椀で、お湯のみの様なすっとした胴になっていて、縁が外側にそっている。こういう形は「羽反れ(はぞれ)」という形らしい。こんなお椀に具だくさんの豚汁なんかは入らないなあ、と思う。ぜんざい、お吸い物。みそ汁だとしたら具はごく少な目。まあとにかく、お上品なお椀なのだ。蓋つきというだけで、既にお上品ではあるけれど。

お椀をちょっと手に取って観察した後、私はまたお盆の上に什器を並べて全体を眺める。美しい。

こういうのは京都の人、好きだろうなあ、と思う。尊敬するお茶の先生の顔が思い浮かぶ。

そりゃあ、生産地だもんなあ。近江商人が京都好みの物、作るよなあ~。さすがよく知ってるよなあ~。

そんな事をふと思う。滋賀といえば近江。近江商人。京都をマーケットに大活躍してきた人たちは、京都の好みに精通している。焼き物だって滋賀で焼き物といえば信楽。狸の置き物が有名なようだが、お茶の世界では渋くて味わい深い、人気の焼き物だ。15代楽吉左エ門は滋賀に自らの美術館を作っている。お茶と滋賀は結びついていると感じる。

お茶の世界だけでなく、ネタとして滋賀の人は「京都に水流さへんで!」というけれど(笑)、琵琶湖の水は疎水を通って京都を潤している。水、食料、文化。滋賀は生産地であり、京都は消費地なのだ。

京都の人は、ひたすら「あざとさ」「いかにも」を嫌う。おろしたての服、切りたての髪、そういうのはカッコ悪い。いかにもずっと前から使いこなしていたかのような「こなれ」「自然さ」を重視する。

その最たるものは京都御苑に行けば見ることができる。御苑の木々はもちろん、完璧に手入れが行き届いているが、その方針は「自然に生えているように」である。いかにも作り込んでます、刈り込んでます、というのが見えてしまってはいけないので、西洋の庭にあるような、円錐形の糸杉などはない。なにか一つだけが目につくことはなく、全体的に調和のとれた光景を好むのである。これは簡単なようで、とても難しい。お化粧でいうならナチュラルメイクだ。

京都は超絶技巧の「ナチュラルメイク」が大好きだ。ホントのすっぴんは「だらしない」ということで大嫌いだが、いかにも「メイクしてます」という濃い化粧もダメなのである。

技術を駆使して「何もしてない」ように見せるのが京都好み。しかも見る側はそこのところの努力にきちんと気がついていなくてはいけない。「女の子はすっぴんが一番だよね」などとナチュラルメイクを駆使した女の子に向かって言い放つ、のんきな男子などはお話にならないのである。実にややこしい話ではあるが。

今、私の目の前に並ぶ什器は、どれかひとつが目立ちすぎることもなく、全体で調和しながらいかにも普段使いの食器です、という表情をしている。しかし、その実思いきりオシャレな「おもてなし」の道具たちだ。道具のナチュラルメイク。さすが生産地。消費地の好みをきっちり押さえているものだなあ。

そんなことを一通り思ったあと、。いや?。と一つ、疑念がわいた。

いや?もしかしたらこれ、滋賀の方が、京都に仕掛けてるんじゃないか?

京都の人の好みをよく弁えて、それに合わせた品々を揃えて売り込んでいくのが近江商人だと思っていたが、実は逆なのではないかと、ふと思った。滋賀が、滋賀の思う「京都」をプロデュースして、自分が売り込みたい物を売っているのだとは考えられないか?

そうだとすると、滋賀は京都の黒子として京都ブランドを作り、操り、「京都」という市場を作り上げて稼いでいるということになる。なんと賢いのだろう!

滋賀はまるで、ロザンの菅ちゃんだ、と思った。

お笑いコンビのロザンは、宇治原さんが京大出身芸人と言うことをウリにしている。同級生の二人は、菅ちゃんが今の売り方を見越して宇治原さんに京大に行け、と言い、そして宇治原さんはそうした。

その目論見が大当たりしていることは周知の事だろう。菅ちゃんは頭の良さは相方に任せ、自分はアホのような顔で笑っているが、その実その相方を作り上げて巧みに操っているのである。

ああ、菅ちゃんって賢いよなあ~と、いつも思って見ているのだが、なんと、滋賀もそうだったか。

私ははっは~ん、と心底感嘆の声を上げながら、改めて店内を見回し、夫に怪しまれた。

店を出て、帰路につく。道中は琵琶湖と田んぼが沢山見えた。それらの多くは京都にも供給され、消費されるのか。ここで京都が仕込まれているのか。そう思うと、ただの田んぼがいつもと違って見えた。

京都は消費地、滋賀は生産地。

ぼそっとつぶやくと、娘が「え、なに?!」と言った。いやなんでもないよ、と私は笑った。