benkyo

枠組みが違うので

娘が中学に入って、否応なく「受験」の二文字が付いて回るようになった。これまでは「個性を」「自主性を」とか言っていられたけれど、やはり中三の冬に受験、というゴールテープを張られてしまうと、そのレースを拒否できない。中高一貫校でない限り。

 

娘の代わりに勉強してやれるならそれが一番いいのだけれど、それは無理なので、せめてもといろんな情報を仕入れている。情報がありすぎて、収集するのを辞めればいいのについ集めてしまってモヤモヤしてしまう。いやほんと、やめればいいじゃん、と思うのだけれど。

 

で、なぜモヤモヤするのかを考えていた。要は自分の理想と現実のギャップに出くわすとモヤモヤするのである。そして、その理想、というのがちょっと実現は無理で、だからこそモヤモヤするんじゃないかと思い至った。

 

私が見聞きするとモヤモヤする話は、海外と日本の教育事情を比べて、日本は遅れているとか、圧倒的に競争力が劣っているとかいうもの。これを言う人は、アメリカ暮らしだったり、仕事でよく海外に行ったりする人たちのように思う。

 

言っていることは実に正しいと思う。もっと自由に生きろ、テストの点よりリーダーシップを。非認知能力だ。等々。

 

大体みんな、偏差値教育を批判し、テストの点で能力を測る時代はもうすぐ終わる、と言っている。

 

多分、そうなのだろうと思う。おそらく主張のほとんどは正しいのだろう。個人的にもその状況は理想的だ。でも、私は理想の環境を想像してワクワクする一方で立ちすくむのだ。

 

「では、私はどうすれば?」

 

先述の人たちは正しいけれど、「外から」理論を展開している。「日本の教育の枠組みは間違っていますよ。世界はこうなっていますよ」「もうすぐ日本の枠組みはかわりますよ。いつまでも前と同じじゃダメですよ」と。

 

でもね、私たちは今この瞬間も、皆さんがダメだという枠組みのただ中にいるわけなんです。中にいて外から「そこ、違ってますから」って言われても、どう動いていいか分かんないんです。迷路の中を歩いていて、上から「その迷路、間違ってるから」って言われても、やっぱり出口を目指して歩くしかない訳です。

 

そこで登場するのが「ドラゴン桜」なのかなと思う。

この漫画は、進学校でない学校の子達が短期間で東大合格を目指して勉強するというもの。

 

いろいろ批判はあるだろうし、実際批判するキャラクターも出てくるけど、でもこの作品は、日本の教育の枠組みは確かにダメかもしれないし、世界的に見て競争力は絶望的に低いかもしれない。でも、その枠組みから出られない以上は、その枠組みのいいところを最大限利用し、享受するしかないのではないか、そのためには東大に行くのが一番コスパがいいのではないか、と言っているんだろうと思う。

 

アメリカでは点数よりも非認知能力を伸ばしたほうが成功するのだろう。もしかしたら日本でもそうなのかもしれない。でも、その前に日本では受験に失敗したら非認知能力の活かす場所がないのである。

 

私は一人の親として、どう動けるかを考え続けるけれど、教育の枠組みそのものを変えることはできない。それができるのは国だけだろう。その枠組みがおかしい、と言える視点と発言力を持つ人は、私たちに向けて啓蒙活動をすると同時に、国に対しても働きかけをしてほしいなと切に思う。