katan2

決めれば、決まる。

家族で、休日によく「カタン」というボードゲームを楽しむ。

このゲームは世界大会も開かれている、ボードゲーム会では人気のあるもので、我が家でも一昨年のクリスマスに購入してからずいぶん楽しんでいる。

 

このゲームの特徴は、勝敗が運だけではなく、自分で考え、交渉し、戦略を立てて闘えるというところだろう。サイコロ次第でもなく、実力次第だけというわけでもない、そのあたりの塩梅がゲームを面白くしていると思う。

 

さて、わが家では3人家族なので、普段は3人でゲームをやっている。お正月などは日がな一日やっていることもある。

 

勝率は夫が一番いい。次が娘。この二人は勝ったり負けたりで、若い分、そのうち娘の方が強くなるんじゃないかと思わせるものがある。

 

そうして、ダントツで負けているのが私だ。

もう、本当に負けが込んで、一時期「しばらくカタンはやらない」と大人げなくも拗ねてしまったほどだ。

 

私の何が悪いのか?を研究すべく、コマの初期配置やゲーム展開を、三人で検討し合ったことも再三ある。でも結局

「悪くないよね」

「サイコロの目だったよね」

で、終わりである。紙一重で、こんなに負けるものかというほど、私は弱かった。状態として、ただの人数調整のためにいると言っても、あながち間違いではなかったと思う。

 

ある時、ゲームの目的は「勝つこと」なのかどうか聞いたことがある。夫と娘は異口同音に「勝たないと面白くない」と言ったが、私は「楽しければいい」と考えていた。

 

楽しければいい。勝たなくても、ゲーム上で自分がやりたい戦略を実現出来たらそれでいいと思っていた。逆にそれができないと楽しくないので、それはみんな同じだろうという思いから、誰かの目的の邪魔をすることはしなかったし、直接ぶつかり合うようなことは避けていた。場合によっては自分に不利だと分かっていても、交渉に応じたりもしていた。

 

要は、自分からゲームを降りていたんだと気がついて、久しぶりに勝ちたいぞ、と思った時、自分で「このゲームは勝つ」と決めてみた。

 

すると、誰かの邪魔をしなくてはいけない場面があっても、これまでは「まあ、やめとくか」だったのが躊躇なく邪魔をし、対決するところも「よしやってみよう」という気持ちになった。

 

気持ちが「勝ち」を目指すと、行動が変わる。さらには運も引き寄せる。「ここで3、出る!」と思ってサイコロを振ると3が出たりさえもした。

そうして結局、私は勝った。決めれば決まるのだ。

 

「楽しめればいい」と思っていた時は、つまりは目標があいまいだったと言える。その場その場で楽な戦略を選んでリスクをとっていなかったし、行動に一貫性もなかった。

 

でも「勝つ」と決めたら、そこに向かうまでのルートは色々あって、焦点が絞られているからとらねばならないリスクは迷わずとるし、一つがダメでもすぐ次の手を打てる。戦略は自由自在に見えながらも一貫性が出るのである。

 

決めれば、決まる。

 

以来、カタンを始める時には、一瞬だけ腹に力を込めて「勝つ」と決める。もちろんそれで負ける時もあるけれど、勝率はぐんと上がったし、負けたからって前ほどつまらない負け方はしなくなった。

 

これはゲームに限った話ではないのではないか。

人生、楽しければいいやと思っていなかったか?自分の心を点検したら、思い切りその通りだった。夫は仕事、私はそのサポート、そんなクラシックな考えに染まっていた。なんなら「妻は夫の稼ぎの中でつつましく生活すべし」なんて格言を大事にしていたかもしれない。なんと主体性のない!!

 

いや、自分が自分の人生のハンドルをあんまり真面目に握ってないことは、なんとなく、薄々、前まえから気がついてはいたのだ。でも、この生き方を選んでしまってこの歳まで生きて来たからには、もう軌道修正はできないのだと思っていた。

 

このゲームで勝った時、心の端っこで「決めれば決まる。人生も変えると決めれば変わるんじゃないか」と思った。しかもこの思いにはうっすら実感が伴っていた。

 

よし、「人生でも勝つ」と決めよう。

と、勢いよく言いたいところだが「人生で勝つ」というのはどういう事なのか、まずはそこから考えなくてはならない。どんな状態が「勝ち」なのか。私にとっての「勝ち」とは何なのか。

 

時間はあまりない。早く目標を決めて走り出したい。ゲームで言うと、私の人生はもうそろそろ終盤にさしかかろうとしているというのに、内容はまだまだ序盤、という感じで何も始まっていないのだ。いや、実は答えはもう持っていて、すでに助走はしているような気もする。この文章自体が、助走の一歩と言えなくもない。

 

急いでゴールに行きたい。なんとなく頭の中に浮かぶ理想の生活に向かって。