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塩味が大事 計量編

主婦になりたての頃は、料理はだいたい目分量と記憶に頼っていた。

これくらいの野菜を炒めるんだったら、塩はこれくらいかな、と適当に塩を振ったり、肉じゃがをあと5分煮た方がいいな、と思ったらそれを覚えておいて、きっちり五分後に火を消すとか、そんなことができていた。

 

ところが子供が出来て生活が大変なことになってくると「あと5分煮よう」と思っていても、なにか事が起きてそれに対応している間にすっかり煮物の事など頭から抜け落ち、気がつくと鍋が焦げていたりする。もう、いちいちタスクを覚えていられないのだ。お湯だって、やかんを火にかけている間に子どもと寝落ちしてしまい、帰宅した夫がほとんど空焚き状態のやかんを見つけて驚愕したことがあったりもした。

 

これはマズイ、と思った私はまず、キッチンタイマーと笛吹きケトルを買った。

そっちで任務終了を知らせてくれ、という訳だ。

 

調味料も、適当に入れて「これでいいかな?いやもうちょっとか?」なんてコンロの前で悠長に味見している暇はなくなった。ばっと入れたらもう振り返りはなし!みたいなのでないと無理。

 

というわけで、こちらもキッチン秤と計量スプーンを買った。

 

それから間もなく炊飯器が壊れたのを機にご飯を圧力鍋で炊くことにしたので、毎日5分、キッチンタイマーで加圧時間をはかるようになった。毎日毎日5分測っていると、だんだん5分が体内時計に刷り込まれてくるのか、「もうそろそろかな」と思ってタイマーを見ると、だいたい10秒前くらいである。面白いな、と思って気がついた時に覗いてみると、まあそんなに誤差はない。

 

たまに、5分にタイマーをセットしたものの、スタートボタンを押し忘れている時がある。「もうそろそろかな?」と思って見に行くと、タイマーが「5分」のままなので焦るのだが、最近はそれから10くらい数えて火を消すことにしている。これで焦げたことは一度もない。人の感覚というのはすごいものだと思う。

 

料理の味付け、とくに塩加減はもうちょっと難しい。これでいい、と思ってもそれが本当かどうかは分からないからだ。美味しい、と思う塩分量は人にも、体調にもよる。

体に良くて、しかも美味しいと思う塩分量というのは調理する材料の重さの0.6%であるらしい。なので、料理をするときは材料の重さを量って、塩の量を計算するようにしてみた。

 

実はちょっとだけ、めんどくさい。でも、この段階では火を使ってないので、何か事が起きて中断しても何も危なくはないし、ここさえやってしまえば後は何も心配せずに美味しい料理ができるので頑張ることにしている。

 

毎日材料の重さを量って塩の量をはじき出すと、これまた、いろんなことに慣れてくる。家族分でつくるおかずは、大体毎日、同じくらいの量を作るはずだ。例えば今日は野菜炒め一キロ、明日は野菜炒め400グラム、と言うことは考えにくい。一キロの家庭は大体毎日一キロつくるだろうし、400グラムの家庭は400グラムなのではないだろうか。

 

そうすると、一キロの材料に対する塩分量は6グラム、400グラムなら2.4グラムだと、もう計算しなくても覚えてしまう。それを醤油で味付けしようと思うと、醤油の塩分量は大さじ1杯で2.4グラムなので、一キロだと2杯半、400グラムなら1杯だ。さらに、それらの塩を毎日お皿に計量していると、それが見た目どれくらいの量なのか、というのも大体分かってくる。計量時間も微調整程度で、やみくもにやるより短くなってくるのだ。

 

このやり方を娘が覚えたら、もう一生使えるなと思ったので、塩鶏じゃがを作る時に一緒にやらないかと誘ってみた。

 

人参、玉ねぎ、ジャガイモ、鶏肉を塩と一緒に蒸し煮にするだけの簡単料理だ。

娘に材料の計量と、塩分量を計算してもらう。

 

「え~、72グラム!」

娘はそう言って、塩を72グラムをはかり出した。ざらざら~と秤の上に山となる塩。

私はおいおい、と思いながら「多くない?」というと、娘は「でも72グラムだったよ」という。「それ、6パーセントじゃないの?」というと、あ、っと言って電卓をはじき直し、「ごめん、7.2グラムだった」といって塩を計量しなおした。

 

普段、砂糖は「大さじ5」とか使うことはあっても、塩は大さじでレシピ上に登場することはほとんどない。

 

ほとんどないが、ほとんどないと思うためには、やっぱり場数が必要なのだ。じゃがいもに味付けするのに、塩を50グラム以上使うことなどありえないと思うのは、理屈ではなく感覚。理屈だと「だって電卓がそういうから」となるが、感覚だと「そんなに塩使うのは、保存食作る時だけ!」みたいな話になるのだ。

 

ここで計算ミスしたかも、と思えるかどうかはまさに感覚知、とでも言っていいような「感覚」なのだろう。そしてその感覚は、日々の場数、経験によって作られるのだなあと、娘をみてしみじみ思ったのだった。