インフルエンザに罹ってしまった。
とはいえ、風邪かなと思って行った病院で、念のためにやった検査で陽性反応があった、という感じで、熱も最高で37.7度までしか上がらず、とくに寝込みもしなかった。
「しんどくなくても、インフルエンザなことは間違いありませんから、今週いっぱいは外出を控えてください」と看護師さんに言われ、その週は仕事を休むこととなった。
これから一週間、家にこもらねば、と、うれしいようながっかりなような気分で、病院帰りにコンビニで物資を買い込む。ポカリ、冷凍うどん、そしてモンブラン。一週間の休暇の幕開けをケーキで祝うのだ。
帰宅して、早速ケーキを食べることにする。いつもはマグカップにコーヒーだが、体調が悪い時には紅茶が欲しくなる。紅茶を飲むならせっかくだからお気に入りのカップを使おうか。
私は食器棚の奥から久しぶりにアウガルテンのカップ&ソーサーをひっぱり出した。本当に久しぶり。アウガルテンはもとより、ソーサー付きのカップというのがもう、何年ぶりだか、という勢いだ。
そうして、インフル患者とは思えない優雅な気分で、私はお茶を楽しんだ。私にこのウィルスをくれた娘は40度近い熱が出て、赤黒い顔をして布団の中でフーフー言っていたが、とても同じ病気とは思えない。
そんな優雅な時間を過ごしながら考えたことは、やっぱり、余裕がないとこの時間は持てないんだな、ということであった。
普段はマグカップにインスタントコーヒーをジャーっと入れて、次の家事のことを考えながら、時計を横目にしつつの一服である。あるいは何かのタイマーがなるまでのひととき、とか。
そんな時に、ソーサー付きのカップは使う気にならない。丁寧に扱わないと割れるんじゃないかと思うような繊細な什器は使えない。うっかりテーブルの上に置き忘れたまま朝を迎えても気にならないようなマグカップでないとダメなのだ。
つまり、カップ&ソーサーで紅茶を飲むような生活をするには、まず時間に余裕がないといけない。その次に、カップを丁寧に扱うことのできるような、気持ちに余裕がないとダメなのである。
ふ~ん、これは単に「お気に入りは毎日使う」という教えを守るべく「明日からはソーサー付きのカップを使おう!」と決めてもダメだなあ、と思った。いくらそのカップを使ってお茶を飲んだとしても、頭の中が次の家事の段取りでいっぱいだったら意味がない。今日のように、ひたすらゆったりとした時間と気持ちの余裕が必要なのである。
そうして一週間が過ぎ、私は社会復帰した。すると、休み中は度々登場したアウガルテンは、元通りに食器棚の奥に引っ込んでしまった。私は時計を見ながらインスタントコーヒーをマグカップで飲む生活に帰ったのである。
しかし、アウガルテンで紅茶を一口飲んだときの、あの気分が上がる感覚を、私は思い出してしまった。あの感覚を、もっと日常で味わいたい。
とはいえ、私の今の日常に繊細なカップ&ソーサーは難しい。
だったら、マグカップを上質なお気に入りにすればいいんじゃないか?
そう、私は考えた。
いや、もちろん、私が一番使っているマグカップも上質なものだし、気に入ってはいるのだが、なにぶん長く愛用しているので、少々目先を変えたくなって来ているのである。
そして食器棚に並ぶ、お気に入り以外のマグカップを眺めて驚いた。自分で選んで買ったものがなかったのである。お土産、お祝い、引き出物、粗品。それに引き替え、カップ&ソーサーはすべて自分で選んで買い求めたものばかりであった。
ああ、これはいかんなあ、と思っていた時、ふとメルカリで目にした新品のロイヤルコペンハーゲンのマグカップ。
見た瞬間、リビングでこれを使う自分の姿が目に浮かんだ。絵柄のデザインは昔からある、良く知っている定番の物である。でもこれならコーヒーでもお茶でも紅茶でも、日々使い倒せそう。食洗機にも入る。繊細すぎることもないから、朝までテーブルに置き忘れてても平気。何より今見た瞬間、私の気分が上がった!
ああこれ、いいなあ。
でもなあ、マグカップには、困ってないんだよなあ。
不要不急だと言われたら、その通りだよなあ。
そんなものに、そこそこの金額を払ってもいいもんなんだろうか。マグカップ自体は、100円で手に入るものなのに。メルカリだけど、ほぼ定価だしなあ。
いやいや、物の金額は、使う回数で割って考えないと。毎日使えばそれだけコスパは良いってことになる。100円で買っても使わなければ高い買い物。このロイヤルコペンハーゲンは、きっとそういう意味では高くはないはず。
気に入ったんでしょ!マグカップではほとんど初めての事でしょ!!お気に入りは毎日使うんでしょ!これならそれが実現できる!
このカップを買う事、使う事を自分に許せ!!許すんだ~!!
「あ~もう、許す!!」
私は小さくそう叫んで「購入する」ボタンを押した。
そうして数日後、マグカップはうちにやってきた。初めて主体的に選んだマグカップである。箱から出して手に取った時、なんだか子どもの頃のクリスマスプレゼントを開けた時の様に嬉しかった。それからすぐ、私はこれまで持っていたマグカップを4つ処分した。
ありがとう。君たちの役目は終わりました。
これまで何度も捨てようとして捨てられなかったカップが、あっさり手放せたことにも驚いたし、うれしかった。
たかがマグカップ、されどマグカップ。私にとってはここ数年の学びが凝縮された買い物であった。これからのこのマグカップとの生活が楽しみである。